تسجيل الدخول眠ったはずなのに、体がすっきりしない。まるで鉛が、体の真ん中に居座っているようだった。その重みが、紡の心まで侵食していく。
ベッドに大の字になって、ぼんやりと天井を見上げる。
本当なら、いまごろは朔也の部屋でくだらないことを言い合っているはずだった。それなのに――。
この二週間、死ぬほど忙しかった。週末に朔也に会えなくて、さびしかった。連絡できなかったのは、仕事のせいだけじゃない。心配をかけたくなかったのだ。
「ああっ! もうっ!」
紡は頭をかきむしった。
わかっている。心配をかけたくないからと、なにも言わずにいるのは、いまの紡たちにはもう必要のないことだ。黙っていた自分が悪い。
それなのに、本当のことを言い当てられてカチンときた。だから、言い返してしまった。
昨日のドアの閉まる音が、まだ耳の奥にこびりついている。あの音を、自分で鳴らしたのだ。
紡はサイドテーブルに手を伸ばし、スマホの画面をつけた。時刻は、もうすぐ正午だ。着信もメッセージ
六月になった。梅雨入り前の、からりと乾いた空気が頬をなでていく。 紡と付き合いはじめて、もう四か月目になる。 片想いの時間がお互い長すぎて、最初はうまく心のうちを出せなかった。それでも、一度ぶつかってからは少しずつほどけてきた気がする。 いまでは紡が部屋に来る日のほうが多く、ほとんど半同棲のような暮らしだ。自分の部屋に紡がいる。それだけのことが、いまだに夢みたいに思える。隣で紡が目を覚ますたびに、これは現実かとこっそり確かめてしまう。 ずっと、欲しがることすら自分には許されない気がしていた。それがいま、当たり前みたいに隣にいる。 六月の最初の土曜日。 紡とデートをして、食事をした帰りだった。どちらからともなく足が向いたのは、あの駅だった。紡と再会した、あの駅。 改札をくぐり、ホームの奥のベンチへ向かう。八か月前、朔也が酔いつぶれて眠っていた、あのベンチだ。同じ場所に、同じ形のままぽつんと残っている。ふたりで並んで腰を下ろした。 八か月前のあの夜、ここで酔いつぶれていた自分を紡が見つけた。あのときは、まさかこんな日がくるなんて思いもしなかった。 夜のホームは、人もまばらだった。生ぬるい風が、線路の匂いを運んでくる。 ――言うなら、いまだ。 朔也は、ずっと言いそびれていたことを話す決心をした。 嘘はつかない。隠したいことがあれば、ふたりで決める。先日、そう約束したばかりだった。なら、胸の奥にしまったままのこれもちゃんと渡しておきたい。 大きく息を吸って、腹に力を込める。「あのさ……」「ん?」 紡が、あどけない表情で朔也を見た。一点の曇りもない目が、まっすぐに朔也を映している。その澄んだ目を見ていると、よけいに言い出しづらくなる。「あの夜さ……。『有馬だよね』って言われた瞬間。実は意識が戻ってたんだ」「うん。それは聞いたよ。覚えてないふりした、って」「あ…&hellip
日曜の夕方、紡はひさしぶりに自宅マンションへ帰ってきた。 いまは朔也の家にいるほうが多く、この部屋に戻るのは週に一度あるかないかだ。長く暮らしてきたはずなのに、こもった空気が、ここをよその家みたいに感じさせる。 窓から差す夕日が、見慣れた家具をオレンジに染めている。ものはどれも元の場所にあるのに、どこか冷たく見えた。郵便受けにたまった広告。流しに伏せたままのマグカップ。生活の止まった部屋の匂いがする。 ここには、紡の荷物がある。けれど、紡の暮らしはもうこの部屋にはない。 ――きっと、あっちでの暮らしのほうが、もう心地いいんだろうな。 そんなことを考えていると、スマホが震えた。画面を見ると、実家からだった。「もしもし」『紡?』 母だった。実家からは月に何度か、こうして電話がかかってくる。もう二十七なんだから心配いらないと言っても、やめてくれない。「母さん、元気?」『私は元気よー。紡は?』 朗らかな声に、少しだけ肩の力が抜けた。なんだかんだ言って、家族からの電話は特別なのかもしれない。「うん。元気」『仕事は忙しいの?』「あー、うん。新しいプロジェクト任されて、ちょっとね」『そう。体に気をつけなさいよ』「ありがと」 電話の向こうで、母は近所のことや父の愚痴をひとしきり話した。その声を聞いていると、子どものころの台所の匂いまでよみがえる気がした。 他愛もない近況を話していると、ふと母がこぼした。『紡、最近、声が明るいわね』「え?」 心臓が、どくんと跳ねた。 声が明るいのは、たぶん朔也のおかげだ。いや、たぶんじゃない。間違いなく、朔也のせいだ。一緒に過ごすようになってから、毎日が自分でも驚くくらいやわらかくなった。 でも、母はなにも知らない。紡がゲイだということも、朔也のことも。 母は、紡を二十七年見てきた人だ。声の調子ひとつでなにかを感じ取っても、不思議じゃない。それが、うれしいような、こ
まだまだ自分の気持ちを全部朔也に言えないときもある。けれど、言葉を飲み込む回数はずいぶん減ったように感じる。それは朔也も同じようだった。いつもなら笑ってごまかすところを、きちんと言葉にしてくれる。そうやってお互い、ちょっとずつ前に進んでいる気がした。 苦手なことをするのは、誰だって嫌だろう。それでも朔也のためなら一生懸命になれる自分を見ると、よっぽど好きなんだなと思ってしまう。 朔也の家に着替えを置くようになってから、平日も朔也の部屋で過ごす時間が増えた。増えたというより、ほとんど住んでいるようなものだ。もう、自分の部屋はいらないんじゃないか。そんなふうに思うくらいだった。「はい、お待たせ」「うわっ。うまそ」 朔也は、紡が並べた夕飯を、目を細めて見た。「朔也、全然ご飯作ってくれないじゃん」「ははは。いや、紡の飯がうまいからさ……」 そう言うと、朔也は大皿から麻婆豆腐をすくって小鉢に入れた。スプーンを口に運び、顔をほころばせる。「うまーっ! これ、レトルトじゃないんだろ?」「意外と簡単だよ。調味料さえあればパパッとできるし。今度教えようか?」「いや、いい。紡が作って」「俺、家政婦じゃないんだけど!」 ぷうっと頬を膨らませると、朔也が吹き出した。「相変わらず紡はかわいいなぁ。ちゃんと後で体で払ってやるよ」「えっち! そんなことで済ませられると思うなよ!」「はははは」 くだらないやりとりをして、ふたりで笑う。なんでもない夜だ。けれど、こういう夜こそが紡にはいちばんかけがえのないものだった。 そのとき、紡のスマホが震えた。「誰だろう?」「見たら?」「……うん」 画面を確認すると、高城からのメッセージだった。タップして開く。『白瀬ー! 今度、有馬と三人で飲もうぜ! 同窓会の後、お前らの様子がおかしかったから、気になってさ!』 なんだ、こ
眠ったはずなのに、体がすっきりしない。まるで鉛が、体の真ん中に居座っているようだった。その重みが、紡の心まで侵食していく。 ベッドに大の字になって、ぼんやりと天井を見上げる。 本当なら、いまごろは朔也の部屋でくだらないことを言い合っているはずだった。それなのに――。 この二週間、死ぬほど忙しかった。週末に朔也に会えなくて、さびしかった。連絡できなかったのは、仕事のせいだけじゃない。心配をかけたくなかったのだ。「ああっ! もうっ!」 紡は頭をかきむしった。 わかっている。心配をかけたくないからと、なにも言わずにいるのは、いまの紡たちにはもう必要のないことだ。黙っていた自分が悪い。 それなのに、本当のことを言い当てられてカチンときた。だから、言い返してしまった。 昨日のドアの閉まる音が、まだ耳の奥にこびりついている。あの音を、自分で鳴らしたのだ。 紡はサイドテーブルに手を伸ばし、スマホの画面をつけた。時刻は、もうすぐ正午だ。着信もメッセージも、なにもない。 もちろん、紡からは電話もしていないし、メッセージも送っていない。ただひと言、「ごめん」と送れば済む話だった。けれど、それでは今までとなにも変わらない。謝って、閉じる。それで丸くおさまったことにして、結局なにも話さないままになる。 ふと、水瀬の言葉がよみがえった。「ちゃんと喧嘩しろよ」 あのときは、どうして水瀬がそんなことを言うのかわからなかった。十年も想い続けた相手なのだから、できることなら喧嘩なんてしたくない。誰だってそう思うだろう。 スマホをサイドテーブルに戻し、頭の後ろで手を組む。 仲直りとは、なんだろう。 怒りがおさまってから会うことだろうか。いや、それを待っていたら、また十年が過ぎてしまう。それだけは、嫌だ。せっかく再会して、恋人同士にまでなれたのに。このまま、なんとなく終わっていくなんて絶対に嫌だった。 紡は、ベッドから飛び起きた。 シャワーを浴びると、頭の芯が少しだけ冷えた。それでも、胸の奥の怒りはまだくすぶって
五月に入ると、日中の気温がぐんと上がった。まるで夏のような陽気に、体がついていかない。湿気のない風が吹くのだけが、唯一の救いだった。「白瀬ー。ちょっと」 相沢本部長が、席から紡を呼んだ。「はい! すぐ行きます」 モニターの作業をきちんと保存してから、紡は本部長の席へ向かった。「これ、次のプロジェクトのスケジュールな。頼んだぞ」 ぺらりと一枚、資料を渡される。目を通すと、かなりタイトな日程だった。「結構、期間が短いですね」「そうなんだ。この前の会議で決まってな。blancが調子いいから、上も畳みかけたいらしい」 blancの販売開始から、すでに三か月がたっている。価格帯の高い文房具にもかかわらず、売れ行きは好調だった。「大人の会社員」というコンセプトが、デザインとぴたりはまったのだろう。 その勢いのまま、紡は新しい案件を任された。今度は女子高生向けのブランドだ。大きな筆箱に何本ものペンを詰める世代には、デザイン性と書き心地の両立が求められる。「まあ、お前なら大丈夫だろ? 期待してるぞ」「ありがとうございます」 頭を下げて、自席に戻る。 その日から、紡の負担は一気に増えた。 残業が当たり前になり、土日の出勤もやむを得なくなった。前の案件より日程がきつい以上、仕方のないことだった。 深夜のオフィスは、人の気配が薄い。蛍光灯の白さだけが、やけに目に刺さる。冷めたコーヒーを口に運んで、紡はようやく指先が冷えていることに気づいた。それでも、手は止められなかった。 新規プロジェクトを任されてから、初めての金曜日の夜だった。残業の途中で、スマホが震えた。朔也からの着信だ。 ハッとして、画面に表示された時刻を見る。いつも駅前で待ち合わせる時間を、とっくに過ぎていた。仕事に追われて、連絡を入れるのをすっかり忘れていた。『紡、今日来るよな?』「ごめん……。連絡するの、忘れてた。今週末は、仕事で無理かも」『そっか&helli
合鍵をもらったものの、なかなか使う機会は訪れない。平日はお互い仕事が忙しく、朔也の部屋へ行く暇もない。結局、これまでどおり週末に会うだけだ。 それでもキーケースに朔也の部屋の鍵があるだけで、お守りのような心強さがあった。仕事でくたびれた日も、それを指で確かめるだけで背すじが伸びた。鍵は、まだ一度も使っていない。それでもよかった。あるということが、大事だった。 今週末も、朔也の家へ行く予定だった。朔也が紡の部屋にこないのは、呼びたくないわけじゃない。ただ、朔也の部屋のほうが広いからだ。決して、ほかに理由はない。 木曜の夜。泊まりの支度をしていて、ふと手が止まった。「……あ」 クローゼットの奥に、朔也から借りたスウェットが畳んだまま置いてあった。年末、急なパッケージ変更でセントラル・アドに遅くまで詰めた。その日の夜。その帰りに朔也のマンションへ寄って、借りたものだ。 あの夜のことを思い出して、顔が熱くなる。初めて、ちゃんとキスをした。その先へ進んでもいい雰囲気だったのに、紡のほうが逃げ帰ってしまった。 あのときも、本当は進みたかった。ただ、壊れるのがこわかっただけだ。このスウェットは、いわば紡の情けない記憶のしるしだった。 あの夜から、ずいぶん遠くまできた。逃げ帰った自分が、いまは堂々と泊まりの支度をしている。それがなんだか、くすぐったかった。「……返さないとな」 着替えを入れた紙袋に、スウェットも重ねて入れた。 四月最終週の土曜の午前。紙袋を提げて、紡は朔也の部屋を訪れた。前の夜はお互い忙しく、会えなかったのだ。 インターホンを押すと、内から扉が開いた。「合鍵渡したんだから、それ使えばいいのに」 朔也が、口を尖らせて不服そうな顔をする。「……うん。でもさ、開けてもらうの、うれしいし」「なんだよ、それ」 今度は、ちょっと照れた顔になる。こうしていろんな表情を見せてくれるのは、きっと恋人
会議室を出るとき、有馬は資料の入った鞄を肩にかけ、当然のように紡の分まで持った。エレベーターを降りて、誰もいないエントランスを抜ける。自動ドアが開いた瞬間、十二月の夜気が、洗ったばかりの首筋に、ひやりと刺さった。 有馬の家に行く。 まさか、そんなことになるなんて、思ってもみなかった。 駅まで並んで歩き、終電前の改札を抜けて、空いた車内にふたりで乗り込んだ。隣に有馬が立っているという、ただそれだけのことが、今でも信じられなかった。 ちらりと横目で窺うと、有馬の口は、横一文字に引き結ばれていた。なにかを決め、その決意がこぼれな
あれから、黒木はあまり馴れ馴れしくしてこなくなった。他人から見ればわからない程度の、ほんのわずかな変化だ。けれど紡にはわかった。ほんの少しだけ、距離が遠くなった。きっと黒木は、紡に好きな相手がいることを察したうえで、自分なりに線を引いたのだろう。そんなにすぐ気持ちが整理できるはずもないのに、すごいな、と紡は素直に感心した。 だから紡のほうも、黒木にはこれまで通り接した。今さら急によそよそしくなる必要もない。それで十分だったらしく、まわりの同僚たちには、ふたりのあいだにあった出来事は、たぶん誰にも気づかれていない。 有馬じゃない相手なら、こんなにも普通に振
月曜日の合同会議が始まる前、紡は落ち着かなかった。 どんな顔をして有馬と向き合えばいいのか、わからなかった。 金曜日の慰労会で、有馬は紡にキスをしようとした。確かな事実だった。紡は受け入れるつもりだった。なのに、有馬は自分から身を引いて「忘れてくれ」と言ったのだ。忘れたくても忘れられるはずがない。 ようやく自分が一歩を踏み出せたと思ったのに、今度は有馬のほうが引いた。 紡と有馬のあいだには、いつも一定の距離が決まっていて、どちらかが近づけば、もう一方がきっちりその分だけ引いてしまう。そんな仕組みになっているのだろうか。
店の引き戸を、後ろ手に閉めた。そのまま、扉に背をもたせかけた。 ――ああ。やっちまった、かな。 あれは、どう見ても「キスをしようとした」と取られても仕方ない。いや、実際にしようとしたのだ。あまりに紡が無防備で、こらえがきかなかった。自分以外の男に、あんなに近い距離で囁かれているのを、見ていられなかった。 つまり、嫉妬だ。 みっともないほどの、ただの、嫉妬だった。 朔也は、大きく、ため息をついた。入り口近くの席の客が、その大きなため息にちらと振り返ったが、すぐに自分たちの話の輪へ戻っていった。







